玉縄に人、歴史あり
 郷土史研究家 石井 博さん(城廻在住)
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二年後の平成24年、玉縄築城500年の節目を迎える。玉縄周辺に居住していても、当時のよすがを、いま知ることは難しい。著名な城下町とは異なり、歴史的構造物など、形として残るものが、極めて少ないからである。しかし仰ぎ、眺め見る城郭がなくとも、玉縄北条の精神、歴史は厳然と息づいている、石井さんは強調する。



息づく融和の精神

今にも伝わる玉縄の気風は、玉縄北条七代によって、作り上げられてきたといっていい。それは、ゆえなく他国を攻めたり、人をたぶらかし、貶めるようなことを極力避けた、寛容、和の精神でもある、という。
「北条早雲と言う人は、京都での官僚時代、為政者の自己中心的姿をいやというほど見てきたんですね。それが、他を思い、他を生かす、という理想を求める精神につながり、和を重んじる。玉縄の伝統的風土につながったのではないでしょうか」。石井さんが何より、こよなく玉縄を、いとおしむ理由である。



「玉縄城郭絵図」筆をとり、自ら歩き描く。判りやすい絵図は、講座等で好評だった。

玉縄のことは、玉縄で

年金生活の身で、何十万もの費用を捻出するのは、実は大変でした」。郷土史研究家として、昨年2月にA4版、110頁の「玉縄通史」を発刊した。あえて、自費出版に踏み切ったのは、玉縄北条七代記を通じて、玉縄の気概といったものを、世に問うておきたかったからに違いない。
すでに、世の中には多くの研究者、学者らによる玉縄北条の論文や、小説、評論が出回る。
「玉縄の歴史は、玉縄の人間で考えていきましょうよ。外から見てもよく判らないし、そこに住んでいてこそ、はじめてわかることが多いんです」。
玉縄の人間として、郷土史の研究にのめり込んで、20年余がたつ。独自の研究成果を書き残しておくべきと、信じたからでもある。


氏舜は「うじきよ」
玉縄五代城主は氏舜と書くが、どう読んだらいいか。意見は二分されて、かなりの学者、研究者は「うじとし」とルビをふるが、石井さんは「うじきよ」説を主張する。
「築城500年祭を催そうと、言うのですからやはり曖昧な事ははっきりさせておいた方が」。玉縄北条は北条早雲から七代だが、六代説を唱える人たちへも、反論がある。研究者をはじめ、しかるべき機関にも回答書を送り、はっきり出来ることは、この500年というタイミングで確認し合おうと、行動をとった。鎌倉市の中央図書館は、石井さんの説く「うじきよ」が適切と、公式な見解を最近寄せた。



鎌倉シルバーガイドで目覚め
40年間、石井さんは旧国鉄職員として働いた。駅長も経験したし、現在の横須賀線と総武線を一体化させ、相互乗り入れさせる仕事もやり遂げた。興味はあっても、現役時代の忙しい身に、玉縄の歴史を追う余裕はなかった。
退職後、ボランティアとして「鎌倉シルバーガイド」の役を仰せつかる。玉縄の史実に目を向け、飽くなき探求心がメラメラ燃えたのは、このガイドとしての活動からだった。
鎌倉市が実施する講座に、講師として招聘される。必然事前の勉強が進む。いつしかまとめた資料、データは居室を埋めるほどの、膨大なものになる。
畳半畳ほどの和紙にスケッチした玉縄城や、くるわ、土塁などの絵図面は、大変判りやすいと評判になる。自費出版した「玉縄通史」を世に出したのは、膨大な量のデータと、靴をすり減らし実際に検分した、積み重ねの集大成であった。




   
                               なぜ佛の頭を撫ぜる
"なぜ佛"と盆栽と
信楽焼を作る粘土を、信楽から取り寄せ「身代り佛」を作る。撫(なぜ)佛とも呼ぶ。
近くに住む産院の看護師さんの嘆きを聞く。「あらゆる手だてを尽くしても、世に生を受けないまま亡くなる。そんな赤ちゃんを間近に見た時の無念さ、悲しさ」。なぜ佛の頭を撫ぜることで、不思議と気持ちが安らぐことを知る。そうした方たちに「身代り佛」を贈る。
石井さんは、明治期の宗教家である田中智学を信奉する。あせらず静かに時を待つ。そんな精神が、身代り佛を彫らせるのか。「腹が立ったら我慢、我慢と言って、この佛を撫ぜる。怒りは地獄の業となる」。
昭和2年1月生まれの83歳。南向きの庭には、50年来のモミジや、松の盆栽が、石井さんの鋏を待っている。