玉縄には万葉的ひびき、心地よさが。。。


「マンション9階が仕事場。窓から富士山を眺めつつ」
=三木 卓さん

 
 石井
 もう、34年にもなられますか。東京からロジュマンに引っ越してこられて。玉縄地域でのご生活、日々のお暮らしぶりはいかがですか。
 三木 玉縄という言葉の響き。万葉的で由緒ある印象をうけますね。ある意味古さという感覚を残しますが、歴史の重みといったものを発しているのではないでしょうか。
 縁あって、と言ってもお金がなかったので、安くてとにかく日あたり良く環境のよい場所。それだけで探し当てたのがロジュマンです。心地よい日差しを浴び富士山を眺め、住み着いて長い年月が経ちました。
 石井 玉縄と言う地名は古く、平安末期1145年頃の史実に「玉輪」という名で登場していたそうです。鎌倉の旧市街のような観光資源として整備はなされていませんが、玉縄城が出来て来年で500年ということですから、長い年月を経た、ある意味「気」と言うのがこの地域に漲っている、ということでしょうか。
 三木 仕事やアイディアに詰まったりすると、よく散歩に出ました。近くでは龍宝寺や、その隣にある諏訪神社にも上りました。荘厳さなどを期待するよりも、お寺の庭先のマーガレットが見事だったり、折々の花をみたりして神仏に手を合わせる。何か異空間に入っていく思いですね。
 神社の周辺には、古い大きな樹木がたくさんある。空気が違います。これが頭の中を変化させる。さきほどの「気」というものから来るのかもしれません。
 鎌倉という場所は距離感がほどいいんですね。サラリーマンも同じでしょうが、仕事柄どうしても東京時間というか、原稿の締め切りに追われ東京のペースでことが進む 。最近は少なくなりましたが、すさまじい東京の時間に巻き込まれ、何というかシンクロされていたんですね。
 近くもなく遠くもなく、東京から一定の距離を置いている。これが精神面も含めてゆとりというか、大きな影響を与えているのではないでしょうか。逆に、都会の生活と余りにもかけ離れた「村社会」に入ってしまうと、それはそれで息苦しいこともある。ほどほどの距離感が、鎌倉の地の利と言ってもいいのでしょうね。

  

    

 石井
 来年には玉縄城築城500年祭があります。先生にも実行委員会の顧問になって頂いておりますが、すくなくとも500年の歴史が連綿と続いています。何にもない土地と言うわけではありません。
 三木 三浦半島に芦名と言うところがあります。ここのお城の城兵は、秋田の角館にまでも行ってるんですね。講演で出かけた時に初めて知りました。そんな話を聞いてると、生き生きとした往時の息吹が感じられます。
 玉縄城でも戦いが終わればきっと茶の湯をやったり、城主の一声で歌舞音曲も含め「玉縄文化」といったようなものが花開いていたに違いありません。田舎の城ではない。文化と活力 これはずっと続いていたに違いないと思いますよ。
 石井 玉縄城の城跡は清泉女学院が出来たことでなくなりましたが、乱雑な宅地開発で住宅地になってしまうより、清泉女学院さんひとつでまとまってくれたので良かったとも言えます。何かイベントをやるのでも、清泉さんとお話をすれば、前に進むことも容易になりました。これがたくさんの地主さんがいたら、大変だったに違いありません。
 三木 私がこちらに来た時は、柏尾川ものどかな雰囲気がありました。今は護岸工事でしっかり固められていますが、当時は川の両岸に菜の花が咲いていたり、実によかった。
 来る前は東京の亀戸にいました。美濃部都知事の時代で、亀戸2丁目団地というのは要するに防火帯としてつくられ、そこに住んでいたんです。
 作家といっても頭に貧乏がつくほうで、新聞やチラシをながめ、とにかく頭金が何とか工面出来たのがこのロジュマンだったんです。
 石井 ロジュマンを選ばれたのはお金と陽当たりとおっしゃいますが、しだいに故郷に近づきたくなる。そんなことも人間にはありますよね。
 三木
 父親は静岡の出身で、一時期今の西新宿、かつての淀橋浄水場の近くで古本屋を商っていました。僕はそこで生まれたんですが、家業はちっとも儲からず、父の友人が見るに見かねて満鉄の広報関係の仕事を紹介してくれ、7年ほど家族で大連におりました。戦後引き揚げたのが故郷の静岡市でした。
 神奈川の海岸線は静岡とつながっています。無論東京ともどこともつながってはいますが、隣同士ですね。それと玉縄には槙の木があります。生垣等に使われたりしてますが、庭木にもなっています。これは、神奈川から静岡以南に多く見られます。お茶やミカン、静岡〜神奈川というのは、植生からしてみてもきわめて相通ずるところがある。
 静岡の高校で学び、すでに小説家を志していましたので、東京に受験の準備で来ます。大船駅の観音様を見ると、いよいよ東京だなと思いましたし、帰り途大船を過ぎると、東京ともさようならだと思ったりしたもんです。故郷に近い方へ、より近い方にと向かっていく気持ちですかね。
 石井
 地域社会を支え、また支えられつつ生きていかなければなりません。コミュニティの重要さは言うまでもありませんが。

 お祭りが、コミュニティの核にも
 三木 まぁ、現役の人に何か手伝ってもらうと言うことになると、それは無理ですね。みんな仕事でへとへとですよ。休みの日に出てきて手伝ってくれと言われても、結構難しい問題です。
 それでも「ロジュマンまつり」なんかはいいんじゃないですか。子どもたちがいずれロジュマンから離れる時が来ても、お祭りが一つのシンボルで、そこに心の場といったものが作れるのではないでしょうか。



「お祭りでは、いつも石井代表の出番」猿ハ真 





    
 石井 過去、ロジェマンまつりも2年に1度と縮小したこともありましたが、現在は毎年やります。子どもの数は大変減りましたが、周辺地域含めたみんなのお祭りにしようと思っています。ロジュマンから巣立って行った子どもたちが、このお祭りのときに戻ってくるんですね。里帰りと言うことです。
 三木 それは感動的なことですね。お祭りと言うのは、そういう力をもつものなんです。山口県に周防大島があります。普段は何もなく電気も消え、廃村みたいな状態になっていますが、お祭りになるといっぺんに賑わう。テレビも一斉に鳴り出す。
 お祭りにみんなが帰ってくるんです。日本人の心の故郷なのか、誰の気持ちのなかにもある、郷愁なのかもしれませんが、お祭りは、それを核にコミュニティをつくっていく、格好の手段ですよね。
 石井 芥川賞作家であり、童話、児童文学、詩もお作りになる。多方面でご活躍ですが、これからはどちらの方向に力をお入れになられるのですか。
 三木 75歳、もう店じまいです(笑)。何をやっていくかと言っても、その時々でニーズが違いますんでね。文学の基本は詩だと思いますが、あまり書いていません。今は子ども向けの著作に親しんでもらえる度合いが多い。私の小説の分野は大変読者が少なく、何百万人もの読者がいるわけではありません。3ケタ違うんです。
 芥川賞を戴いたといっても、みんな売れる作家になるわけではなく、僕の本など芥川賞受賞者の中で、最も売れないワーストではないでしょうか。口の悪い叔父が芥川賞受賞作を評して、「お前の書いた小説は、何が書いてあるのかさっぱり判らない」。こんなもんですよ。現代音楽みたいなところがあって、文学の流れの中では判りにくい部類ではありますね。
 石井 先生には私が主催する中学生を対象にした、鎌倉の世界遺産登録推進に向けた作文コンク ールの選考委員長をお願いしています。毎年500〜600本の作品が寄せられそのなかから、入賞者を市議会の本会議場で表彰し、本人達に作品を朗読発表してもらい、講評を先生にお願いしています。
 三木 選び方一つで、子どもの将来が変わるようなことになってはいけませんから。コンクールに入選する、しないでは大違いです。いい加減には出来ませんし、実際作品を読んでますと、子ども達の気持が本当に伝わってきます。
 子どもたちは大好きです。近くから玉縄中学校の体育会でしょうか、女生徒たちの快活な声が聞こえてきたりすると、とってもいい気分になります。こんなことも、都心では得られないことでしたね。
 石井 先生、今日はご多忙の中を色々と楽しいお話を聞かせて頂き、有難うございました。くれぐれもご自愛の上、今後も素晴らしい作品を、沢山発表して頂けるよう願っています。
            

三木卓さん
 昭和10年5月、東京・文京区に生まれる。38歳「鶸」(ひわ)で芥川賞受賞。平成9年「路地」で谷崎潤一郎賞、平成11年紫綬褒章、平成18年には文学の諸分野での長年の功績が認められ「恩賜賞・日本藝術院賞」が。早稲田大学露文科卒。在学中から「現代詩の会」結成に参加するなど、詩人として出発。新聞、出版社に勤務しながら、著作を発表してきた。

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