鎌倉市社会福祉協議会の会長をはじめ、公職はこの4月に退いた。それでも、毎日が日曜日と言うわけにもいかず、地域の福祉、教育に熱情を注ぐ。昭和5年5月生まれの、カクシャクたる80歳

鎌倉清和理事長  大嶋 文夫さん (台在住)

生粋の玉縄人、そして生粋の教育人として
 玉縄に生まれ、玉縄に育つ。玉縄尋常小学校が、植木・龍宝寺前に設けられたのが、大正15年のこと。11年後、大嶋さんはこの校舎最後の1年生の一人として、入学した。
 すぐに現在地の玉縄小学校校舎に移るが、大嶋さんの手書きによる70年前の
<玉縄小学校周辺図>
は、往時の玉縄村を彷彿とさせる。マンションが立ち並び、ひっきりなしにバスや車の往来する場所も、小学生達には、ザリガニや蛙を追いかけ回す遊び場だったし、玉小は田圃の中の、唯一の建物だったのである。
 生粋の玉縄人は、また、生粋の教育人である。
 「生活はけして楽ではなかったはず。それでも両親は教育熱心で、兄妹9人全員を大学にやりました。あの時代としては、珍しいことでもありましたね」。ご本人も、当時横浜から鎌倉・雪の下に移ってきた、神奈川県立の師範学校を、予科から本科へと進む。「やはり教育者になろうと決めていました。教育に強い関心もあり、自分なりに教育への使命感みたいなものがあった、ということでしょうね」。
 大嶋さんの生家である小林家は、軍人一家。長兄が応召し、戦地で亡くなる。長兄から「一家を守れ」との強い一言も、教育の世界で生きる理由の一つでもあった。

原点は人と人、教える人にはきちんと教える
 奉職するのはすでに、戦後の新制教育になってからのことだが、小・中・高の免許を取得しており、爆発的に増加する生徒に対応するため、常時5人もの教育実習生の指導も委ねられていた。
 38歳と当時では最年少で逗子・小坪小学校の教頭に任じられる。後に数か所の学校最前線で、生徒の指導に当たるが、大嶋さんの腕は教員の確保という、重要な任務に一層発揮される。戦後から高度成長期へ、教師の数は特に都市部で大幅に不足。増え続ける生徒に、先生の供給は、喫緊の課題だったからである。
 「藤沢市役所の前にあった、県の教育事務所におりましたが、ここは、相模原から横須賀、三浦までの13市を担当してました。その後は県に戻り、結局は採用試験官を拝命することになりました。北海道にも随分行きました。沖縄にもです」。人買いならぬ、教員確保のための、行脚だった。
 自身、労働組合である神奈川教組の支部書記長に指名され、鎌倉で大会を開いた経験を持つが、人事担当職の役目がら、後に組合とのせめぎあいにも直面する。
 「組合の方針に翻弄され、教育者として一番基本的な事。つまり人が人を教える。この根幹が忘れられた時期もありました」。これは大きな反省点だったという。学校荒廃が指摘される教育界で、しばし、教育の基本がないがしろにされる現実に、忸怩たる思いを持つ。
 「神奈川は比較的良識派の集まりなんです。友人の委員長は、後に某市の教育長にもなったくらい」。それでも、教えることを教え切ってないことに、苛立ちを覚える。「例えば長幼の序ということがありますね。敬語を使わない。先輩を先輩として敬わない」。今の教育界だけのことではないが、警鐘を鳴らさずにはいられない。 

退官後飛び込んだ福祉。三谷さんからの三顧の礼
 60歳の退官を期に、清和会の理事に就任する。その後、県会議長も務めた三谷前理事長からのたっての要請で、理事長に就任する。
 「理事のみなさんは全員が先輩。にもかかわらず新米の若造に、理事長を任せるのはどういうわけ。随分非難の声を耳にしました。気にはなっても、三谷さんからの命令です」。
 結局断ることは出来ず、教育界から今度は、介護、障害者の福祉といった世界に飛び込むことになる。しかも、最高責任者として、清和の組織を維持し、さらに発展させる役目を担った。
 福祉には膨大なノウハウの蓄積が必要である。総体的な医学、設備、訓練。清和の存在はすでにこの分野における、県下で最右翼、全国でもトップクラスの実績、組織を育て上げることに成功している。
 「何事も熱意ですね。何か問題が起きる。ああしよう。こうもしてみよう。とにかく熱心に、誠実に対応していく。その中から解決策も生まれてきます。教育の世界も介護の世界も、それは同じです。障害のある人たちにも、健常者と同じように心構えを説き、必要な訓練を続けることなんですね」。

7人のお母さん。50年の歴史刻む

 植木・清和会鎌倉の玄関脇には、御影石で作った碑文がある。そこに記された言葉こそが、清和会存在の原点であり、理念でもある。
 「子供たちの行く末を、ただ案じているだけでは何も解決しない。社会に出して、生活させるには、それなりの教育・訓練が必要」。障害者を持つ母親7人が、小袋谷にあった旧大船支所の一室を借りたりしながら、障害を持つ子供たちへの訓練を始める。
 昭和35年、この集まりが自由契約施設「鎌倉清和学園」へと発展する。この中には初代の清和学園理事長となる、富岡周五郎さん(鎌倉ハム富岡商会オーナー)のご家族が、必死に子供たちを訓練・介護する姿もあった。
 今年、清和学園は創設50周年の節目を迎える。例年多くのイベントを開催しているが、6月に鎌倉芸術館でコンサートなどの催しを開く他、秋には50年祭も予定している。昭和47年、社会福祉法人としての認可を得るが、実は、障害者救済への思い、清和の血脈は、7人の母親たちによる血のにじむ活動に、その源を発している。
 植木の障害者生活支援センター鎌倉清和、関谷の鎌倉清和園、由比ヶ浜の鎌倉はまなみ、市内と横須賀4か所にケア・グループホームを持ち、さらに、次へのステップに向けいくつかのプロジェクトが動き出している。